ドミナとして生きる ―本能の破綻と文化の継承―
文章を書くということは、なぜこれほど奇怪なのでしょう。頭の中で浮かびあがるワードをまとめ、間を文章で補い、繋ぎ合わせ、何度も打っては消し、順番を入れ替え、言い回しを変え…気づけば時間ばかりが過ぎてしまう。多くの表現活動があるこの世。多くの人へ広め伝える方法として、文章は映像に敵いません。それなのに文章に固執し、文章を書くことにのみ本心が書けると思っているからこそ、その執着こそが自分の手を止めてしまうのです。自分の感情や思想を記録しておきたいだけなのに、その手段を文章のみとしてしまう私には、執筆作業がいつのまにか自分を消耗させている感覚があります。その作業に何十時間も使っている自分を俯瞰して、「もはや、ここまでして残したいのか?」と自問してしまう程です。AIに私の文体は書けません。だからこそ大切な文章を自らの手だけで書いてきました。一体この執着はどこから生まれてくるのでしょうか。
結論から言いましょう。私にとって文章を残すことは子孫を遺すことと同じだからです。生殖は肉体のある人間だからできる行為です。対して生殖を望まない“本能の壊れた人間”である私は、生殖ではない形で自分の証を自力で遺さねばと思えてならないのです。
ここ数ヶ月、多くの変化がありました。4年半勤めた会社を辞め、新しい事業を始動させるまでの、わずかな休暇期間。様々な方々に出会い、新たな価値観を学ばせていただきました。この期間で、SMビデオの企画撮影に関わり、サイトのリニューアルをし、舞台に立たせていただき、バイクの免許を取り、中国へ行き学会発表と発掘調査をし、地方へ行き創生プロジェクトに携わらせていただくことになる…なにこれ夢の話?と、夢オチが一番しっくりくるほどの経験をさせていただきました。休む暇なく、次々とこなしていったので、落ち着いた今、当時のことを振り返ると、「一体これは誰の人生の記憶だろう?」と思ってしまいます。ほんの3カ月前が何十年も前に感じるほど、怒涛のような数ヶ月でした。きっと、これら一つひとつが、これからの私を構成する要素になっていくような気もしています。
こうした数ヶ月で私が得た教訓は実に簡単なものです。「会いたい人には、会える時に会っておくべき」と云うこと。こんな言葉、多くの先人たちがすでに何度も言葉にされてきましたが、世間に未熟な私はようやく今理解できるようになり、そして実行に移しつつあります。
“○○を芸の肥やしに…”と云う表現を耳にしますが、まさに私は怒りを芸の肥やしに生きてきました。というよりも、人よりもセンシティブな人間が生きてゆくためには、理不尽も葛藤もすべての負の感情を、自身の糧にするしかないと信じてきたのです。そうして今、女王としての私はある種の転換期にいます。広がるべきとしてきたものを、狭く変えると云う転換です。女王としての私も、世で生きる仕事人として私もいずれ融合するでしょう。そのため、現在進めている仕事の都合上、いずれセッションの門戸を狭めざるを得ません。
この文章を読むことのできるマゾ達へ事前の告知です。もう時期、予告なしでセッションの料金改訂を行い、数年後には日本人とのセッションは、気の許した馴染みの奴らだけを残し、完全に閉じるつもりです。外国人にのみ、今のような門戸を開けておく形に変える予定です。会いたくても会いに来れないご事情はあると思いますが、私は待ちません。時が来て、完全に門戸を絶たれた時、会いたいと嘆きながら指をしゃぶって私のビデオを見てお終いで宜しい。
さて。ここまで目を通し、まだ読みたいと思えたのは、私の奴隷達の中でも賢いサブの奴らだけでしょう。だからお前達が聴きたいであろう私の思想を説いてあげましょう。私には心の聖書があり、それが何を隠そう諫山創さんの『進撃の巨人』です。
巨大な壁で覆われたパラディ島で生きる主人公エレン。『進撃の巨人』とは、彼が巨人の力を得て自由を求め進み続ける物語。物語の進行とともに、島で生きるエレンたち人類は、巨人になれる人間、つまり“エルディア人”と云う人種であること、そして、海を隔てた先にいる“巨人になれない人間達”から長年憎まれてきた史実を知った。エレンは理不尽に向けられてきた憎悪を島の外へと返すべく、巨人の力を用いてパラディ島以外の人間たちの虐殺を選んでしまう。
私が心揺さぶられたのは、エレンの異母兄であるジークと云う人物です。ジークはマーレと云う大国で生まれ、彼もエレンと同様、巨人になれる力を有するエルディア人です。その一方で、エレンとは異なる思想を持つ。エルディア人の迫害や世界から向けられる憎悪を解決するために、エレンは「パラディ島の人間以外の虐殺」によって迫害の歴史や憎悪を抹消することを選んだのに対し、ジークは「エルディア人だけが消滅すること」が最善だと考えました。それこそが「安楽死計画」。巨人の力を用いてエルディア人の生殖能力を奪い、子孫を残せないようにすることで、時を経て最終的にエルディア人は絶滅するというものです。
そんな彼の思想は反出生主義だとよく解説されます。彼の安楽死計画はエレンの虐殺により頓挫するものの、エレンを止めることのできないジークはこう言う。(生物の)『生きる目的とは「増える」ことだ』と。
動物学、進化生物学的に言えばどうなのでしょうか。動物学の祖といわれるニコ・ティンバーゲン(Nikolaas Tinbergen, 1907-1988)は、そもそも「人間の生物学的本能は、もともと生存と生殖に特化したものである」(Tinbergen, 1951, The Study of Instinct)とする。イギリスの進化生物学者であるクリントン・リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins, [ˈdɔ:kɪnz]、1941-)は『利己的遺伝子』の中で「生物の存在意義は自己の遺伝子を次世代へ伝えることにある(Dawkins, The Selfish Gene, 1976)。」と記す。
その一方で、人間には増えることを目的としない人間もいるでしょう。生きることに逆らう力もある。歴史を見ても人間は、お国のため、大事な理念のため、大事な人のため、ぼんやりした不安だとかで、何らかの理由付けをして、自らの命を投げ打つことさえもできてしまう生物である。本能に植え付けられた「増えろ」と言う命令から解放された人間たち。その存在は私の知りうる浅い範囲ではあるが、哲学や心理学の中で確かに言葉にされているようです。
精神分析学者・岸田秀は著書『ものぐさ精神分析』の中で「人間は本能が壊れた動物である」と記した。そもそも「本能」とは何か。三省堂国語辞典では「動物が生まれつき持っている性質・能力」、心理学辞典(ミネルヴァ書房)では「種に固有で個体差のほとんどない行動様式」と説明される。つまり、本能とは生きる上で必要最低限の機能、生存と生殖のための備えでしょう。またフロイト(Sigmund Freud, 1856-1939)は『文化の起源』(1930)において、人間の文化形成を「リビドー(性的エネルギー)の昇華」と位置付けた。性的欲動が直接的に表現されることを抑圧される代償として、芸術・宗教・倫理・文化といった高度な精神活動を生み出したとし、この「昇華」的行為は「本能の代償装置」としての文化そのものである。
つまり、人間は複雑な社会的環境に適応する過程で、本能を十分に充足させることが困難となった。結果として、欲動を直接充たせない人間は、その代償行為として「こころ」を発達させざるを得なかった。私が営むSM(特にドミナとしての実践)は、まさにこの「こころ」を最大限に駆使する文化的行為であると思っています。支配と被支配、理想と従属。これらの間に広がる複雑な心理的関係性は、本能的行動では説明ができない。私が相手の精神を掌握し、欲動の奥深くに指を伸ばし、理想を提示し続ける営みは、生物の交尾行動などとは全く異質の「文化的実践」である(と言いたい)のです。
もう一度、ジークの思想に話を戻しましょう。私は本能が壊れた人間であり、かつ、ジークの反出生主義的な思想に“近い”価値観を持っています。本来、反出生主義は、すでに生まれている生命に対しても“生まれてこないことが幸福である”と考えるのに対して、私はすでに生まれた生命は対象とせず、むしろ、生まれてきたからには幸福になるしかないと思うので完全な反出生主義とは言えません。だからこそ、なぜ生まれてきたのか、そんな考えても仕方のないことをずっと追求してしまうのです。私の“生の思想”と“性の志向”は、どうやら“普通”とは違う…。そういった疑いを抱えながら、産み落とされた人生をどうにか肯定しようと足掻いてきた幼少期。勉強だけを頼りに自力で開拓した道を真面目に歩んでいる最中、その真面目さゆえに反動の波が押し寄せ、アブノーマルを追求するようになってしまい、すべてを投げ打ってSMの世界に足を踏み入れました。どうせ生きるのなら貪欲に味わい尽くしてやろうと。その頃から私の中に常にある問いは、「生殖から遠ざかった自分が、この先、自分がいた証を残すことが叶うのだろうか?」というものです。その答えは、明白でしょう。子ではなく文化やモノを作ることで叶う。本能の壊れた人間は、もはや遺伝子を残す存在ではなく、文化を受け継いでゆくための駒である。
ところで文化やモノとは何か?まず文化とはOxford Languagesに拠れば、「人類の理想を実現して行く、精神の活動。技術を通して自然を人間の生活目的に役立てて行く過程で形作られた、生活様式およびそれに関する表現。」云々と…。文化とは実に広い。例とするなら、青銅器文化、芸能文化、アニメ文化、SM文化…。いわば、○○文化と括ることができるものならなんでも良いのです。モノとはそれら文化の中で人間によって造られた(創られた)概念、思想、物質、創造物など何でも当てはなるでしょう。子は遺せないが、文化は遺せる。だからこそ私は歴史を学び、自分が遺せるであろうSM文化への執着を持ち続けているのかもしれません。
ニーチェ(Friedrich Nietzsche, 1844-1900)が『ツァラトゥストラ』(1883)で語ったように、「生とは自己を超克し、価値を創造する行為」であるならば、私はこの世界にSMという形で「文化的価値」を提示しているのだと考えている。ドミナとしての私の営みは、単なる欲望の解放ではない。サディズムとマゾヒズムの身体的な快楽とは一線を画す、どう生きていくかという問いを求める旅。ドミナの私にとって、セッションとは一つの「説法」なのです。奴隷は膝をつき、幸福という名の苦痛の先に私の支配に呑み込まれる。彼らは、自らの無力と無意味を認識しつつ、私の導きのもとにある種の「赦し」を受け取る。それはまさに、幸せに死へ向かうためのきゅうさ…おっと、胡散臭い宗教家の物言いになってきたのでここまでにしましょう。
瑣末なこの人生で改めて思うのは、人生とは、死ぬまでの過程に過ぎないということ。そんな悲しいことを言わないでくださいと、優しいサブ達は言ってくれるでしょう。私よりも長く生きたサブ達の言葉は私にとって師のように思えます。それでも、呪いのようにこびり付いた思想は拭うのが難しいのです。死に向かう旅のなかで私がドミサブの世界に辿り着いたのは、きっと自然な成り行きだったのでしょう。ドミナとして、文化的実践としてのわずかなSM文化を紡いでいくこと。それが「生きた証」なのだと思っています。生殖本能の循環に乗らず、死に向かう人生に一つの説法を与え、精神的昇華の場を提供する存在。岸田秀が説いた「本能の破綻」こそが、人間が文化を作る根源ならば、ドミナの端くれとして生きようとしている私の行為はその象徴でありたい。
最後にまたジークの話。安楽死計画がエレンによって阻止され、エレンの思惑通り島の外の人類が虐殺されゆく惨状を見て、彼はこう言う。『安楽死計画は間違っていなかったと今でも思う…。』と。それでも、肉親の代わりに彼を導いてくれた人物クサヴァーに対し、こう続ける。『あなたとキャッチボールするためならまた… 生まれてもいいかもなって…』
たとえ、何も遺すことができなくとも、君たちサブとセッションをできたことは、私にとって、また生まれてあげてもいいかと納得できる十分な理由になるでしょう。